戦艦扶桑

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 戦艦扶桑

戦艦扶桑

1、 建造
戦艦「扶桑」は、扶桑型戦艦の1番艦であり、金剛型戦艦に続いて建造された日本初の超弩級戦艦です。
起工は1912年3月11日、その後1914年3月28日に進水し、1915年11月8日に就役しました。

2、性能、特徴
まずその大きさですが、基準排水量29,330t、全長192m、全幅28.68m、最大速は22.5ノットと、建造当時の軍艦としては標準的な速度での巡航を可能としています。
なお、艤装ですが、主砲として45口径35.6㎝砲12門を搭載しています。これは金剛型戦艦と比べて砲塔基数が大幅に増加し、火力重視の設計となっています、しかしながら 全長は金剛型戦艦よりも短くされていたため、砲塔をはじめとした上部構造物の配置はかなり窮屈なものとなっていたようです。
そして特筆すべきはその艦橋の造りになります。対戦初期から中期にかけて何度も近代化改装を行った結果、扶桑の艦橋はジェンガかはたまた九龍城かと揶揄されるほど見た目に不安定な艦橋となりました。それが功を奏した(?)のか、詳しくは戦艦「山城」の回で記しますが、現代でもかなり大人気の戦艦となっております。

3、戦歴
開戦当初は、真珠湾へ向かう空母などが損傷し曳航が必要な場合に備えて他戦艦と共に出撃しましたが、幸いにして出番がなく反転して帰還しました。その後いくつかの戦場へと出撃を繰り返しますが、敵艦隊と交戦することもなく作戦は終了し、その後、1943年頃までは国内にて他の戦艦と共に演習艦として運用されていたようです。ただ、日本初の超弩級戦艦であり火力的にも他戦艦と何ら遜色のない扶桑が、平時ならば老朽艦の役割である演習艦を努めなければならないのか、日々悪化していく戦況を遠目に見ながら学生相手の訓練を行わなければならないのか、乗員たちは苦悩の時期を過ごしていたのではないでしょうか。
その後1944年の9月、西村祥治中将指揮下の部隊へ配備され、10月には運命のレイテ沖海戦へ臨むこととなります。

4、末路
戦艦扶桑の最後の戦いとなったのはレイテ沖海戦です。
10月22日、戦艦「扶桑」は第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)として、姉妹艦である戦艦「山城」を旗艦とし、戦艦「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「満潮」「朝雲」「山雲」「時雨」の編成でレイテ湾へ突入しました。
そして10月25日未明、スリガオ海峡で米艦隊の待ち伏せ攻撃を受けることとなります。何本もの魚雷が命中し速度が低下、艦隊から徐々に落伍していき、第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆した事で大爆発、艦体が真っ二つに折れて沈没してしまいます。夜間のため救助が困難であり、生存者10人前後という悲惨極まりない最期を遂げてしまうこととなりました。

5、その他
当時の日本海軍の戦艦は、「旧国名」が艦名として用いられていたとの資料があります。
では、「扶桑」はというと、実は「日本」そのものだと言われています。松尾芭蕉の奥の細道の一文、「松島は扶桑第一の好風にして~(松島は日本一風景のよい場所)」と謳われているのがその証拠であるともいえます。